植物性サディズム






草原は果てしなく、風は穏やかだった。
薄い群青の空が遥か向こうで地平線と合わさっている。
柔らかい草が靴にまとわりつくけれど歩きにくいほどではない。
さらさらと鳴る草原をただ歩いている。
どこへ行こうとしているのか。
少しばかり前からどうしてもそれが思い出せない。
あるいは、最初から目的など無かったかもしれない。
それでも私の足は明確な意志を持っているかのように歩を進める。
風ばかりが頬を、髪を、網膜を撫でていく。
首にぴったりと張りついた襟元が少し息苦しい。
遠くの方の小さな茂みや背の低い木が僅かづつ後ろへと流れていく。

ふいに私の前方に小さな丘が現れた。
草原の緑に紛れて今まで見えなかったのだ。
それは丘と言うよりも「ちょっとした盛り上がり」と形容する方が適当なぐらいささやかなものだ。
それでもまっさらな大地の中では奇妙に際立っている。
私はその傾斜を登っていった。
頂上からは背の高い樹のようなものがすうっと伸びている。
幹の部分まで緑色なので、樹と言うよりは草か何かのようにも見える。
近づくに連れて丘の稜線が下がり、樹が全貌をあらわしはじめた。
それらはだんだんと下に向かって収束し、根元で一つになっている。
同じ根を持つひとつの個体なのだと気づいた。
その根元からさらに何かが姿を現した。
実に鮮やかな橙色だ。
見覚えがある。
しかし何故こんな所に。あんな大きな…。
私はすでに頂上に立っていた。
長く伸びた茎。鮮やかな色の太い主根。

人参。

そう言うより他にない。
もう一度上から下までじっくりと眺めてみた。
人参。
まさにそのものである。
ただし、おそろしく巨大であるということを除けば。
その人参は根の部分が半分ほど露わになっている。
なんて大きいのだろう。
太さは大人が10人手をつないでやっと囲めるほど。
高さは見えている根だけでも自分の背丈の5倍はある。
まして葉の長さなど見上げるだけでくらくらしてしまうほどだ。
私はしばらく立ちつくして人参を見ていた。

どれくらいそうしていただろうか。
「やあ。こんにちは」
突然、誰かに声をかけられた。
反射的に振り向くと、すぐ近くに人が座っていた。
一歩半ほどの距離だというのに、人参に気を取られて全く気が付かなかったのだ。
その人は人参に寄りかかって此方を見上げていた。
薄青色の髪をした若い人だ。
男なのか女なのかよくわからない。
「ここへは初めて?」
私はきょろきょろとまわりを見回して、おぼつかない動作で頷いた。
その時初めて私は草原を歩いているより以前のことを憶えていないのに気がついた。
その人は笑った。そして呟くように言った。
「だろうね。ここへ一度来た人はもう二度と来ないもの。来たくても来られない。来ようとも思わない。違うな。きっと忘れてしまうんだろうな。そしてぼくも忘れてしまうんだ。ね、そうだろう。だって君がここに来たから」
その人は澄んだ目で私を見上げた。
私は戸惑った。なんのことを言っているのかわからない。
彼は人参に目を移して、何とも言えない表情をした。
蔑むような、慈しむような。感情が複雑に入り交じっているような。
「見てごらん、こいつを。よくもこんなに肥大したものだ。今まで何人もの人間がこいつに餌を与えて来たんだろうね。君、想像できるかい?こいつがばりばりと酷い音を立てて貪り喰らうようすを。おぞましいものさ」
私は人参を見上げた。
橙色の根の真ん中あたりに丸い窪みがふたつ並んでいる。
窪みの間に小さな亀裂が縦にふたつ。
さらにその下に大きな亀裂が横一文字に入っている。
眼窩。鼻孔。口唇。
まるで顔のようだ。
ぞっとした。
何故かはわからないけれど、ただぞっとした。
居心地が悪くなって人参の『顔』から目を逸らそうとした瞬間。

そいつが、身じろぎをした。

きしむような耳障りな音。
僅かにからだをねじらせ、人参が口を開く。
すきま風の様な響きがその口蓋から漏れる。
全身が総毛立つ。
こいつは、この植物は…

「生きている」

はっと振り返る。
その人は笑っていた。
細めた眼とうすく開いた唇が亀裂のようだった。
一瞬あの人参が笑っているような錯覚にとらわれる。
私は何か言おうと口を開いた。
その時だ。
ばらばらっ、と足下に何かが落ちた。
今度は何だというのだ。
「そう、それだよ」
その人が落ちてきた何かをつまみ上げた。
それはナツメほどの大きさの小さな人参だった。
巨大な人参と極小の人参。
「こいつが、餌だ。そしてぼくの…いや、君の仕事だ」
私の仕事?
駄目だ。さっきからこの人が何を言っているのかわからない。
餌だの、仕事だの。
それが私に何の関係があるというのだろう。
心臓が耳障りな音を立てている。
「君はこいつを育てる。そうすればこいつはどんどん成長して動き回り、言葉を解するようになるだろう。適度に大きくなったら餌としてあれに与えればいい。それだけさ。簡単なことだ」
一体何を言っているんだ?
問いかけようとしても喉が張りついてうまく声が出てこない。
その人は突然立ち上がった。
立ち上がって笑ったまま此方を見ている。
私は視線を落とした。
得体の知れない嫌悪感が全身に絡みついていた。
「わからなくても、知ってるはずだ」
その人が一歩近づいてくる。私は反射的に後ずさった。
風が耳元を吹き抜けていく。
その人が歩いてくる。
私は、動けなかった。
「あの人の代わりに僕が来た。そして今僕の代わりに、君が来た」
あの人が近づいてくる。
笑いながら近づいてくる。
ああ。
目眩がする。目眩がする。
私は知っている。
あの人の手が。
あの人の目が。
「さあ」

交 代 だ 。














草原は果てしなく、風は穏やかだった。
薄い群青の空が遥か向こうで地平線と合わさっている。
なにもない草原に巨大な人参がそびえ立っている。
その脇には小さな小屋。
その小屋から何かが三つ、のそのそと出てきた。
長くのびた葉。橙色の根。
人参。
そう言うより他にない。
ただその様相はどこかマンドラゴラを思わせる。
顔のような窪みと亀裂。
手足のごとく突き出た根。
こいつらは揃いも揃って貪欲で利己的で知能の低いクズだが、私の言うことだけはよく聞く。
私はテントの入り口から笑って連中を見送る。

さ、いっておいで。向こうにずっと行ったところに苔桃の木があるから。
あまり沢山いらないから、今日は二人だけで行きなさい。
日が沈む前には帰っておいで。

まるで子供達を見送る母親のようだ。
笑ってしまう。
三つの人参のうち二つが出かけてしまうと、私はあの丘へ登った。
頂上へ着くとあの日のように根本から人参を見上げる。
驚きは、もうない。ただ蔑むようなどこか冷ややかな感情があるだけだ。
見れば見るほど巨大な植物だ。
葉のざわめく音以外には沈黙し、佇んでいる。
私は腰を下ろして人参に寄りかかる。
ここからだと小屋の様子がよく見えるのだ。
風が草原の草を揺らし、髪の間をすり抜け、遥か地平線の彼方へと駆けていった。
何もない草原。
何もない。
この巨大な人参以外は。
そのとき視界の隅で何かが動いた。
残った人参が辺りをうかがいながらそっと小屋の中へ入っていくところだった。
あれは三つの中で一番欲が深く自制心がない。
唇が歪むのがわかった。



人参が簡素なテントの中をごそごそと漁っている。
食べ物を探しているのだ。
壺の中。一番上の引き出し。テーブルの下。
私が隠しておきそうなところを必死で引っかき回している。
なんと浅ましい。
私は入り口の垂れ幕に手をかけ、持ち上げた。
暗いテントの床にサッと光が走る。
あの人参が此方を見て硬直していた。

何をしているの?その手に持っている物はなに?
おれの留守中に何をしようとしていたの?

ぼとぼとと人参が手の中の小さな木の実を取り落とした。
此方に虚ろな眼窩を向けてぶるぶると震えている。
怖いのだ、私が。
私はできる限り冷ややかな声を作って言った。

いけない子だなあ。いけない子だ。
今日はもうそれに手をつけてはいけないと言ったでしょう。
おれの言ったことがわからなかったの。
悪い子。悪い子。
お仕置きをしなきゃあね。

こっちへ来い、と手招きをする。
人参は全身に恐怖を滲ませながら酷く緩慢な動作で寄ってくる。
逆光になっているから私が薄笑いを浮かべているのは、わからない。
私たちはテントを出て、丘を登った。
空は相変わらず快晴だ。
ただ、風は止んでしまった。
何も聞こえない。
草を踏むあまりにも微少な音だけが大平原の空に溶けていく。
ちらりと後ろを見やると、人参が震えながらうつむき加減についてくる。
晴れ渡る空とは対照的にその顔には昏い影が落ちていた。
自然と笑みが浮かぶ。

ああ。楽しいなぁ。

あの植物が目の前にそびえ立っている。
必死でそちらを見るまいとしている人参の頭を乱暴に掴むと無理矢理向きを変えさせた。
今や此奴はおかしくなったみたいにガクガクと痙攣している。
私は目だけで笑った。

これからどうなるかわかるか?わかっているんだろう?
行くんだよ。お前が一番最初だ。
おれがやってはいけないと言ったことをしたからだよ。

それは口実だ。
本当は早くやってみたかった。
こいつをあの化け物の口の中に放り込んで、悲鳴を上げて破片をまき散らしながら音を立てて租借される様子を見てみたかった。
それだけ。
ただそれだけだ。
掴んでいる手に力を込める。
人参は発狂しそうなほどの恐怖を感じている。
私は笑っていた。




地平線に真っ赤な日が落ちる。
夕日に照らされた丘の上の人参は血の色をしている。
赤く染まった草原の中を、影を長くのばして二つの人参達が帰ってくる。
私の言いつけ通り、かごいっぱいに苔桃の実を入れて。
私は見送ったときと同じ笑顔でやつらを出迎えて優しい声で労う。
温かい食事を作り、気持ちのいい寝床を用意してやる。
ひとつ、足りないことを奴らは訝るだろうがどうせすぐに忘れるだろう。
そんなことより次はどうやってこいつ等を餌にしようか考える。
私は自分で育てた餌共に背を向けて嗤った。












結局。
あの人もそうだったのだろうか。
あの人は私のような人だっただろうか。
あの人は私を待っていた。
だとしたら私も誰かを待っているのだろうか。
それとも






終劇



























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